長崎は今日も・・・・ その⑮
思案橋横丁から丸山町へ。
長崎では、丸山町、寄合町を総称して丸山と称しているようで、丸山は日本三大花街のひとつとされています。
寛永19年(1642)市内に散在していた遊女屋を官命により一箇所に集めたのが始まりです。
丸山は江戸時代、海外貿易の発展とともに栄華を極め、上方(かみがた)などから多くの貿易商や知名士(ちめいし)が集まり、 元禄時代(1688~)に全盛期を迎えました。
丸山の遊女の数は、元禄5年(1692)には1,443人を数えるほどでした。
また、江戸時代後期には、日本を代表する漢学者で歴史家の頼山陽(らいさんよう)や幕末の志士・坂本龍馬、三菱の創始者 岩崎弥太郎なども訪れています。
◇史跡料亭 花月 (なかにし礼著の「長崎ぶらぶら節」の舞台となったところ)

高いんだろうなぁ~

恐れ多くて、遠くから撮るのみ(笑)
夜来たことないけど、夜は提灯に明かりがともってまた違う雰囲気なのでしょうね。

うむむ・・・階段・・・・

階段は避けて第3目的地へ向かいます。
途中のお宅、格子が素敵。

こんな格子は見たことない。手が込んでますね。

こんなかわいいレリーフも発見。

坂道を上がって行くと鳥居が見えてきましたよ。

第3の目的地に到着です。

”梅園身代り天満宮”です。

芸妓・愛八をはじめ、多くの遊女が訪れたという天満宮!
---以下の文面内、説明文は現地案内看板から転記---
この天満宮は、元禄13年(1700)丸山町乙名安田次右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神様として親しまれています。
元禄六年(1693)安田次右衛門が二重門(現丸山交番付近)にて、梅野五郎左衛門に襲われました。そして、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、 身代りに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代り天神様と呼ぶようになりました。
そのほか明和安永年間(1770年頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲の興行が行われるようになり、 また、花町に接していることから、遊女や芸者さんが多く参拝していました。
さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には文人墨客により天井絵を奉納されています。 また、第二次大戦時、丸山町の出征を命ぜられた者は必ず参拝したそうですが、身代り天神によりすべて無事に帰還したそうです。

前回の長崎旅で訪れた時は天満宮の関係者のおじいさんがいらっしゃって、建物の中に招いてくださり、いろいろお話をしてくださったのですが、今回は参拝者だけでした。
”梅園天神の歯痛狛犬”

江戸時代の天保11年(1840)に奉納された梅園の狛犬さまは昔から願いをかけると必ず叶えてくださるということで多くの人々に親しまれています。
また、歯の痛みがある者が狛犬様の口に水飴を含ませると、たちまち痛みを取ってくださるそうです。
だから今は水飴ではなく飴が口の中にたくさん入ってます。

私もちょうど飴を持っておりましたので、1つ。
(最近、肩こりがひどくて歯痛を起こすんですよね。単なる虫歯かも??汗)

当時、このいわれは日本各地にまで伝わり多くの参拝者で市が立つほどでした。現在の狛犬さまは昭和12年(1937)に奉納された3代目です。
1代目、2代目はこちら。
いろんな人に親しまれ、撫でられもしたのでしょう。狛犬様の姿がだいぶ丸くなってますね。

境内にはまだまだいろいろ謂れのあるものがたくさん。
”恵美須石”

この石を眺め、恵美須様の顔を見ることができれば美しい笑顔になり、身も心も健康になるそうです。
私にも見えましたよ♪皆さんにも見えますか?見えるでしょう?

こちらは”天満宮”の文字を指でなぞると字がうまくなるそうです。

もちろんなぞりました(笑)
あと、猫ちゃんに遭遇!

ちょっとぼけてしまったけど

もういっちょ!いや、1匹!

寄って来てはくれませんでしたが、逃げもしませんでした。
長崎は猫好きにはたまらない街だなぁ~♪
(住んでいる方たちには困ることもあるのでしょうけど・・・・)
[おまけ]
丸山町の公園にある坂本竜馬像。

高知の桂浜にある竜馬像に慣れてしまっているので、なんだかちょっと似てない気がしてしまいます・・・

長崎は今日も・・・・ その⑯へ続きます。
長崎では、丸山町、寄合町を総称して丸山と称しているようで、丸山は日本三大花街のひとつとされています。
寛永19年(1642)市内に散在していた遊女屋を官命により一箇所に集めたのが始まりです。
丸山は江戸時代、海外貿易の発展とともに栄華を極め、上方(かみがた)などから多くの貿易商や知名士(ちめいし)が集まり、 元禄時代(1688~)に全盛期を迎えました。
丸山の遊女の数は、元禄5年(1692)には1,443人を数えるほどでした。
また、江戸時代後期には、日本を代表する漢学者で歴史家の頼山陽(らいさんよう)や幕末の志士・坂本龍馬、三菱の創始者 岩崎弥太郎なども訪れています。
◇史跡料亭 花月 (なかにし礼著の「長崎ぶらぶら節」の舞台となったところ)

高いんだろうなぁ~

恐れ多くて、遠くから撮るのみ(笑)
夜来たことないけど、夜は提灯に明かりがともってまた違う雰囲気なのでしょうね。

うむむ・・・階段・・・・

階段は避けて第3目的地へ向かいます。
途中のお宅、格子が素敵。

こんな格子は見たことない。手が込んでますね。

こんなかわいいレリーフも発見。

坂道を上がって行くと鳥居が見えてきましたよ。

第3の目的地に到着です。

”梅園身代り天満宮”です。

芸妓・愛八をはじめ、多くの遊女が訪れたという天満宮!
---以下の文面内、説明文は現地案内看板から転記---
この天満宮は、元禄13年(1700)丸山町乙名安田次右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神様として親しまれています。
元禄六年(1693)安田次右衛門が二重門(現丸山交番付近)にて、梅野五郎左衛門に襲われました。そして、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、 身代りに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代り天神様と呼ぶようになりました。
そのほか明和安永年間(1770年頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲の興行が行われるようになり、 また、花町に接していることから、遊女や芸者さんが多く参拝していました。
さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には文人墨客により天井絵を奉納されています。 また、第二次大戦時、丸山町の出征を命ぜられた者は必ず参拝したそうですが、身代り天神によりすべて無事に帰還したそうです。

前回の長崎旅で訪れた時は天満宮の関係者のおじいさんがいらっしゃって、建物の中に招いてくださり、いろいろお話をしてくださったのですが、今回は参拝者だけでした。
”梅園天神の歯痛狛犬”

江戸時代の天保11年(1840)に奉納された梅園の狛犬さまは昔から願いをかけると必ず叶えてくださるということで多くの人々に親しまれています。
また、歯の痛みがある者が狛犬様の口に水飴を含ませると、たちまち痛みを取ってくださるそうです。
だから今は水飴ではなく飴が口の中にたくさん入ってます。

私もちょうど飴を持っておりましたので、1つ。
(最近、肩こりがひどくて歯痛を起こすんですよね。単なる虫歯かも??汗)

当時、このいわれは日本各地にまで伝わり多くの参拝者で市が立つほどでした。現在の狛犬さまは昭和12年(1937)に奉納された3代目です。
1代目、2代目はこちら。
いろんな人に親しまれ、撫でられもしたのでしょう。狛犬様の姿がだいぶ丸くなってますね。

境内にはまだまだいろいろ謂れのあるものがたくさん。
”恵美須石”

この石を眺め、恵美須様の顔を見ることができれば美しい笑顔になり、身も心も健康になるそうです。
私にも見えましたよ♪皆さんにも見えますか?見えるでしょう?

こちらは”天満宮”の文字を指でなぞると字がうまくなるそうです。

もちろんなぞりました(笑)
あと、猫ちゃんに遭遇!

ちょっとぼけてしまったけど

もういっちょ!いや、1匹!

寄って来てはくれませんでしたが、逃げもしませんでした。
長崎は猫好きにはたまらない街だなぁ~♪
(住んでいる方たちには困ることもあるのでしょうけど・・・・)
[おまけ]
丸山町の公園にある坂本竜馬像。

高知の桂浜にある竜馬像に慣れてしまっているので、なんだかちょっと似てない気がしてしまいます・・・

長崎は今日も・・・・ その⑯へ続きます。

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