1998-1999 イタリア留学㉓
※20年近く前の写真のネガを見つけたことをきっかけに当時を綴ります※
(記憶がすでにあいまいなので、思い違いしている部分もあるかもですが・・・・)
「1998-1999 イタリア留学」の記事はこちらで過去分が見られます。
☆1998-1999 イタリア留学記事/過去分
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ケーブルカー(Funicolare/フニコラーレ)に乗って到着したのはヴェスヴィオ山ではなく、
ヴォメロの丘です。

ここから見る夜景は「世界三大夜景」の一つと言われているくらい、きれいなんだろうなぁ。

残念ながら見ることはできませんでしたが(女性2人で夜は怖い)
今見ればなんでこんなところに飛び乗っているのか、、、向こう側へ落ちないかと今見て怖い。

ずっと向こう左側に見えるのが「ヴェスヴィオ山」

☆「ヴェスヴィオ山」
ヴェスヴィオ山(伊: Il monte Vesuvio)は、イタリア・カンパーニア州にある火山。
ナポリから東へ約9kmのナポリ湾岸にある。現在は噴火していない。
紀元前217年にも大規模な噴火を起こしている。紀元62年2月5日に大地震があり、
付近の町に大損害を与えた。
それ以後微地震が続いた。皇帝ネロは復興に国を挙げて取り組み、
純ローマ風の街(ポンペイ)として再建した。
紀元79年8月24日の大噴火が有名であり、この時の火砕流でポンペイ市を、
土石流でヘルクラネウム(現エルコラーノ)を埋没させた。
この噴火について、小プリニウスが伯父大プリニウスが死んだ日の様子を
友人タキトゥスに語った書簡がその書簡集に含まれており、その詳細な描写から、
ヴェスヴィオ山のように大量の軽石や火山灰を高く噴き上げる大規模な噴火を
プリニー式噴火というようになった。以降数十回の噴火を繰り返している。
432年の大噴火の他、1631年12月16日には紀元79年以来最大の噴火(VEI4)をおこし、
約3,000人が死亡した。また1822年には噴煙を14km噴き上げている。
最近の噴火は1944年3月22日のもので、サン・セバスティアーノ村を埋没させた。
1880年には山麓から火口まで登山電車(フニコラーレ)の「ヴェズヴィアナ鋼索線」が
開通した。これを記念して作られた歌(いわゆるコマーシャルソング)が
「フニクリ・フニクラ」である。この登山電車は前述の1944年の噴火で破壊された。
(ウィキペディアより引用)
この時はポンペイまではいかなかったけど、数年後に行きました。
文明の発達していたポンペイの街がヴェスヴィオ山の噴火であっという間に
埋没したと思うと驚愕です。
逃げる暇なくそのままの姿で灰となった人跡に石膏を流し込んだものも見ました。
ヴォメロの丘を降りていきます。

降りる途中、陽気なイタリア人男性3~4人がBarの店先で飲んでいるところに遭遇。
「女性を見たら声をかけないと失礼!」なんて言われるくらいのお国柄。
当時まだまだ日本人は珍しかったのかよく声をかけられました。
彼らもまた例にもれず。
「1杯おごるよ!」と声をかけられ、旅先の解放感からかごちそうになりました。
話を聞くと彼らはナポリのテレビ局の番組に出演するために出ててきたとのことでした。
のど自慢の番組だったと思います。
ほろ酔いで~す。の1枚?

にゃんこも途中にいました。

だんだん陽が落ちてきて・・・・

一旦、宿へ行きチェックイン。
夕飯はナポリ名物、ナポリピッツァを食べにいざ!

1998-1999 イタリア留学㉔へ続きます。

(記憶がすでにあいまいなので、思い違いしている部分もあるかもですが・・・・)
「1998-1999 イタリア留学」の記事はこちらで過去分が見られます。
☆1998-1999 イタリア留学記事/過去分
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ケーブルカー(Funicolare/フニコラーレ)に乗って到着したのはヴェスヴィオ山ではなく、
ヴォメロの丘です。

ここから見る夜景は「世界三大夜景」の一つと言われているくらい、きれいなんだろうなぁ。

残念ながら見ることはできませんでしたが(女性2人で夜は怖い)
今見ればなんでこんなところに飛び乗っているのか、、、向こう側へ落ちないかと今見て怖い。

ずっと向こう左側に見えるのが「ヴェスヴィオ山」

☆「ヴェスヴィオ山」
ヴェスヴィオ山(伊: Il monte Vesuvio)は、イタリア・カンパーニア州にある火山。
ナポリから東へ約9kmのナポリ湾岸にある。現在は噴火していない。
紀元前217年にも大規模な噴火を起こしている。紀元62年2月5日に大地震があり、
付近の町に大損害を与えた。
それ以後微地震が続いた。皇帝ネロは復興に国を挙げて取り組み、
純ローマ風の街(ポンペイ)として再建した。
紀元79年8月24日の大噴火が有名であり、この時の火砕流でポンペイ市を、
土石流でヘルクラネウム(現エルコラーノ)を埋没させた。
この噴火について、小プリニウスが伯父大プリニウスが死んだ日の様子を
友人タキトゥスに語った書簡がその書簡集に含まれており、その詳細な描写から、
ヴェスヴィオ山のように大量の軽石や火山灰を高く噴き上げる大規模な噴火を
プリニー式噴火というようになった。以降数十回の噴火を繰り返している。
432年の大噴火の他、1631年12月16日には紀元79年以来最大の噴火(VEI4)をおこし、
約3,000人が死亡した。また1822年には噴煙を14km噴き上げている。
最近の噴火は1944年3月22日のもので、サン・セバスティアーノ村を埋没させた。
1880年には山麓から火口まで登山電車(フニコラーレ)の「ヴェズヴィアナ鋼索線」が
開通した。これを記念して作られた歌(いわゆるコマーシャルソング)が
「フニクリ・フニクラ」である。この登山電車は前述の1944年の噴火で破壊された。
(ウィキペディアより引用)
この時はポンペイまではいかなかったけど、数年後に行きました。
文明の発達していたポンペイの街がヴェスヴィオ山の噴火であっという間に
埋没したと思うと驚愕です。
逃げる暇なくそのままの姿で灰となった人跡に石膏を流し込んだものも見ました。
ヴォメロの丘を降りていきます。

降りる途中、陽気なイタリア人男性3~4人がBarの店先で飲んでいるところに遭遇。
「女性を見たら声をかけないと失礼!」なんて言われるくらいのお国柄。
当時まだまだ日本人は珍しかったのかよく声をかけられました。
彼らもまた例にもれず。
「1杯おごるよ!」と声をかけられ、旅先の解放感からかごちそうになりました。
話を聞くと彼らはナポリのテレビ局の番組に出演するために出ててきたとのことでした。
のど自慢の番組だったと思います。
ほろ酔いで~す。の1枚?

にゃんこも途中にいました。

だんだん陽が落ちてきて・・・・

一旦、宿へ行きチェックイン。
夕飯はナポリ名物、ナポリピッツァを食べにいざ!

1998-1999 イタリア留学㉔へ続きます。

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