1998-1999 イタリア留学㉘
※20年近く前の写真のネガを見つけたことをきっかけに当時を綴ります※
(記憶がすでにあいまいなので、思い違いしている部分もあるかもですが・・・・)
「1998-1999 イタリア留学」の記事はこちらで過去分が見られます。
☆1998-1999 イタリア留学記事/過去分
----------------
1998年9月からのイタリア留学も余すところあと1か月半ほどのころ。
慶応義塾大学付属の外国語学校 イタリア語コースで知り合ったR子さんがフィレンツェへ。
短期留学のためにやってきた。
以前彼女がホームステイしていたお宅に今回もホームステイをお願いしており、
OKをもらっていたはずなのに、手違いで入れず。
彼女の宿探しをお手伝い。
なんとか金額的にも町の中心からの距離的にもOKな宿を見つけた。
(ちょっと大通りに面していてうるさかったようだけど)
それから数日後、一緒にオルヴィエートといウンブリア州の小さな街へ出かけた。
オルヴィエートの町は大地から隆起した凝灰岩の自然の城壁に囲まれており、この美しく特異な風景の他、古代エトルリア時代には隆盛を栄えたという歴史、街並に残る中世の面影、そして何よりもゴシック建築の宝石とも呼ばれるドゥオモの存在が、オルヴィエートをイタリアの町の中でも、最もユニークで興味深い町の一つにし、世界的に有名な町へとしました。

☆突き当りに見えるのがドゥオモ(大聖堂)

☆サント・アンドレア教会

柱廊と12角形の鐘楼がある1400年代のロマネスク・ゴシック様式の教会。
発見された地下室では、ヴィッラノーヴァ時代から中世にかけて見られる構造と出土品が見つかった。
小さな街ですがどこも絵になる。

☆サン・パトリツィオの井戸(の外観・・・・)

世界的に有名な『聖パトリツィオの井戸』ですが、中の写真がない。
なぜ?
あれもしかして中まで入ってないの?記憶があいまい・・・・汗
どんな井戸なのか、説明だけ。
*****
有名なこの井戸は、法王クレメンテ7世(ジュリオ・デ・メディチ)の命によって造られた。当時クレメンテ7世は1527年の『ローマ略奪』から逃れるためオルヴィエートに避難しており、攻城に備えて水を確保するためにこの井戸を掘らせたといわれる。
設計はフィレンツェの建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネに任された。井戸が完成したのは工事開始から10年後の1537年、法王パオロ3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ・ディ・ローマ)の時代である。 凝灰岩をくり抜いたこの井戸は、深さ62メートル、幅13~14メートル、248段の二つのらせん階段が水管の回りを囲んでおり、一つは水を汲みに降りる用、もう一つは水を地上に運ぶ用と、二つの階段がぶつからないように設計されている。
62メートルにも及ぶ井戸に降りる経験は珍しく、下からの眺めは実に幻想的である。 イタリアでは底なしの浪費家のことをこの深い井戸の名前から『サン・パトリツィオの井戸のような懐をもっている』といいます。
(AMOITALIAより転記 http://www.amoitalia.com/orvieto/turismo.html)
*****
なぜ、オルヴィエートへ行ったのか。
それは単純で、オルヴィエートのワインを日本でよく飲んでいたので町の名前を知っていた。それだけ(笑)
ランチは「ORSO(イタリア語で”熊”)」という名前がユニークなトラットリアで。

帰りにはオルヴィエートの白ワインを購入し、八百屋でアスパラガスを購入。

※この写真、どこかの回の記事で間違って記載したかも※
R子さんの滞在先でアスパラガスの塩ゆでと白ワインで夕飯を食べました。
【おまけ1】
私が間借りをしていたホームステイ先のほかの学生さん「モニカ」と
ギリシアから語学留学してきていた。とても明るくてかわいい子だった。

【おまけ2】
フィレンツェの街を歩いているとき「絵のモデルしない?」と声をかけてきた彼。
油絵、彫刻の作家さん「Gabriele Mossa」さん

記念になるなと思って描いてもらいました。

報酬は現金はお断りした。描いている最中にイタリア人と会話できるのなら、語学学校よりも有意義だから。
それにモデルの途中でコーヒーなどデリバリーしてくれたり、夕食も連れていってくれた。
あと、ヴェネツィアのカーニバルで使う仮面の作り方を観光客などに有料で教えているのに無料で教えてくれた。
その時作ったのがこの太陽。(目の部分に切り込みを入れればお面になる)

今現在の自宅にもずっと飾ってあります。
懐かしいなあ。
彼のサイトを見つけました。
ご興味のある方はご覧ください。
http://www.gabrielemossa.it/
1998-1999 イタリア留学㉙へ続きます。

(記憶がすでにあいまいなので、思い違いしている部分もあるかもですが・・・・)
「1998-1999 イタリア留学」の記事はこちらで過去分が見られます。
☆1998-1999 イタリア留学記事/過去分
----------------
1998年9月からのイタリア留学も余すところあと1か月半ほどのころ。
慶応義塾大学付属の外国語学校 イタリア語コースで知り合ったR子さんがフィレンツェへ。
短期留学のためにやってきた。
以前彼女がホームステイしていたお宅に今回もホームステイをお願いしており、
OKをもらっていたはずなのに、手違いで入れず。
彼女の宿探しをお手伝い。
なんとか金額的にも町の中心からの距離的にもOKな宿を見つけた。
(ちょっと大通りに面していてうるさかったようだけど)
それから数日後、一緒にオルヴィエートといウンブリア州の小さな街へ出かけた。
オルヴィエートの町は大地から隆起した凝灰岩の自然の城壁に囲まれており、この美しく特異な風景の他、古代エトルリア時代には隆盛を栄えたという歴史、街並に残る中世の面影、そして何よりもゴシック建築の宝石とも呼ばれるドゥオモの存在が、オルヴィエートをイタリアの町の中でも、最もユニークで興味深い町の一つにし、世界的に有名な町へとしました。

☆突き当りに見えるのがドゥオモ(大聖堂)

☆サント・アンドレア教会

柱廊と12角形の鐘楼がある1400年代のロマネスク・ゴシック様式の教会。
発見された地下室では、ヴィッラノーヴァ時代から中世にかけて見られる構造と出土品が見つかった。
小さな街ですがどこも絵になる。

☆サン・パトリツィオの井戸(の外観・・・・)

世界的に有名な『聖パトリツィオの井戸』ですが、中の写真がない。
なぜ?
あれもしかして中まで入ってないの?記憶があいまい・・・・汗
どんな井戸なのか、説明だけ。
*****
有名なこの井戸は、法王クレメンテ7世(ジュリオ・デ・メディチ)の命によって造られた。当時クレメンテ7世は1527年の『ローマ略奪』から逃れるためオルヴィエートに避難しており、攻城に備えて水を確保するためにこの井戸を掘らせたといわれる。
設計はフィレンツェの建築家アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネに任された。井戸が完成したのは工事開始から10年後の1537年、法王パオロ3世(アレッサンドロ・ファルネーゼ・ディ・ローマ)の時代である。 凝灰岩をくり抜いたこの井戸は、深さ62メートル、幅13~14メートル、248段の二つのらせん階段が水管の回りを囲んでおり、一つは水を汲みに降りる用、もう一つは水を地上に運ぶ用と、二つの階段がぶつからないように設計されている。
62メートルにも及ぶ井戸に降りる経験は珍しく、下からの眺めは実に幻想的である。 イタリアでは底なしの浪費家のことをこの深い井戸の名前から『サン・パトリツィオの井戸のような懐をもっている』といいます。
(AMOITALIAより転記 http://www.amoitalia.com/orvieto/turismo.html)
*****
なぜ、オルヴィエートへ行ったのか。
それは単純で、オルヴィエートのワインを日本でよく飲んでいたので町の名前を知っていた。それだけ(笑)
ランチは「ORSO(イタリア語で”熊”)」という名前がユニークなトラットリアで。

帰りにはオルヴィエートの白ワインを購入し、八百屋でアスパラガスを購入。

※この写真、どこかの回の記事で間違って記載したかも※
R子さんの滞在先でアスパラガスの塩ゆでと白ワインで夕飯を食べました。
【おまけ1】
私が間借りをしていたホームステイ先のほかの学生さん「モニカ」と
ギリシアから語学留学してきていた。とても明るくてかわいい子だった。

【おまけ2】
フィレンツェの街を歩いているとき「絵のモデルしない?」と声をかけてきた彼。
油絵、彫刻の作家さん「Gabriele Mossa」さん

記念になるなと思って描いてもらいました。

報酬は現金はお断りした。描いている最中にイタリア人と会話できるのなら、語学学校よりも有意義だから。
それにモデルの途中でコーヒーなどデリバリーしてくれたり、夕食も連れていってくれた。
あと、ヴェネツィアのカーニバルで使う仮面の作り方を観光客などに有料で教えているのに無料で教えてくれた。
その時作ったのがこの太陽。(目の部分に切り込みを入れればお面になる)

今現在の自宅にもずっと飾ってあります。
懐かしいなあ。
彼のサイトを見つけました。
ご興味のある方はご覧ください。
http://www.gabrielemossa.it/
1998-1999 イタリア留学㉙へ続きます。

スポンサーサイト