東京発着Gotoどうなるの?の前に⑪
ちょっと間が空きました(汗
「東京発着Gotoどうなるの?の前に」ですが、本当に11月末に行っておいてよかったです。。。
今日は東京のコロナ感染者過去最高の678人ですよ、、、早くおさまってほしいなぁ。
さて、お話は11月の話。
今回は長崎「四福寺」巡りをしようと思い、「崇福寺」「興福寺」と順調に参拝しました。
この2つのお寺から次のお寺まではちょっと距離があります。
最短距離ではなくなってしまいますが、途中、立ち寄りたいところがありました。
「ニューヨーク堂」https://www.nyu-yo-ku-do.jp/

何
なんの店?
はい。カステラのお店です。
いや、洋菓子とアイスクリームのお店といった方がいいのかな?
■ニューヨーク堂の生い立ち https://www.nyu-yo-ku-do.jp/page/6
カステラは「松翁軒」で購入済みですので、お目当てはカステラではございません。
「旅先では1日1ソフトクリーム」のMyルール達成のために「ご当地ソフトクリーム」を求めてきたのです。
こちらのニューヨーク堂さんでは「カステラソフトクリーム」なるものがあるのですが、ソフトクリームは工場で作られるアイスクリームのフレーバー次第で何味になるかはその日にならないとわからない。とのこと。
たのしみに伺ったのですが、なんとこの日はアイスクリーム工場が支度中で販売してませんでした。
めっちゃがかっかり。。。工場次第ってことは明日も支度中だったら食べられないのかな。
でもまぁ、ここまで来たので「眼鏡橋」いかないとね。すぐそばなので。

地元の小学校の野外授業で沢山小学生がいましたが、彼らは橋向の「チリンチリンアイス」に夢中でちょうど下には降りてきていなかったので、ゆっくり撮れました。

ここで3つ目の「ハート」です。

かわいいですよね♪
小学生たちの食べる「チリンチリンアイス」も興味惹かれましたが、私はやはり「ソフトクリーム」が食べたいのでここでは食べませんでした。
そして3つ目のハートの後は3つ目のお寺へ向かいます。

階段と坂の町・・・・だんだん足が辛くなってきたけど、見えてきました「聖福寺」

■聖福寺
聖福寺(しょうふくじ)は長崎県長崎市にある黄檗宗の仏教寺院。山号は万寿山(まんじゅさん)。
http://www.bbyuuyuu.com/burari/syofukuzi.html
「聖福寺山門」
元禄16年(1703)竣工 県指定有形文化財(昭和36年11月24日指定)
堺商人の寄進で棟梁も堺の人。堺で木材を切り組み、海路で長崎へ運んだ。瓦も堺産。三門形式で持送りなどに黄檗様式の特徴が見られる。

天王殿という名称は中国伝来のものです。左右を通り抜けとした門。中央に山門側と大雄宝殿側に背中合わせに仏殿がある。山門側が「弥勒堂」で、黄檗宗では弥勒菩薩の化身とされる布袋さんがにこやかに鎮座いている。
大雄宝殿側は「護法堂」で、守り神・韋駄天が釈迦の説法を剣で護っています。仏殿と門を兼用する独特の形式を持ちます。中門、弥勒門、護法堂などの別名がある。棟梁は山門と同じ堺の人です。
ひょ~~~~。。。。また階段!
「聖福寺天王殿」宝永2年(1705)の上棟 県指定有形文化財(昭和36年11月24日)

ひぃひぃ言いながら登りきると、にこやかな布袋さんが迎えてくださいます。

「聖福寺大雄宝殿」正徳5年(1715)の改築 県指定有形文化財(昭和36年11月24日指定)

釈迦(大雄)を本尊として祀る仏殿。正徳5年(1715)に改築されたもの。棟梁は長崎の人。色彩は扉その他局部にとどめ、素木を主体とするが、細部に黄檗建築の特徴を表す。
「崇福寺」の朱色の建物からするととても質実な感じ。

誰もいない金曜の午後~。だんだん日が陰ってきて寂しくなってきました。

「聖福寺石門」市指定有形文化財 昭和55年1月19日指定

長崎草創期前の栄えた大寺、崇岳神宮寺は、盛衰を重ね無凡山神宮寺として明治を迎えたが、廃仏毀釈のため寺は廃滅、金比羅神社となった。この時、仏像仏具その他仏寺に関係する一切が撤去されたが、境内に残されていた石門を明治19年(1886)聖福寺が譲り受け、現在地に移築した。
中央に唐僧木庵筆「華蔵界」の文字を刻むが、木庵は明暦3年(1657)崇岳山頂の絶景を賞して「無凡山」と題し大書した。それが山頂の巨石彫られているが、この石門もそのころの建造と推定されている。
「瓦塀」

明治中期築造。大雄宝殿横には珍しい瓦塀がある。これは明治初期、聖福寺の末寺5寺中3寺が廃寺となる際に、廃材の屋根瓦の一部を積み重ねてできたもの。
そうそう。境内に「坂本龍馬」の胸像があったのですが、撮り忘れました。
のちに知ったのですが、私が訪れる10日ほど前に建立されたそうです。
「聖福寺と坂本龍馬」の関係は、「1867(慶応3)年5月、龍馬率いる海援隊の船と紀州藩の船が衝突した「いろは丸事件」の談判が開かれた場所」だそうです。高知県と徳島県の境に生まれ育ったものとしては「坂本龍馬」はとても身近な歴史人なので、坂本龍馬ゆかりのお寺と知らずして訪れたことがとてもうれしかったです。なのに写真を撮り忘れるとか。。。残念。
東京発着Gotoどうなるの?の前に⑫へ続きます。

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「東京発着Gotoどうなるの?の前に」ですが、本当に11月末に行っておいてよかったです。。。
今日は東京のコロナ感染者過去最高の678人ですよ、、、早くおさまってほしいなぁ。
さて、お話は11月の話。
今回は長崎「四福寺」巡りをしようと思い、「崇福寺」「興福寺」と順調に参拝しました。
この2つのお寺から次のお寺まではちょっと距離があります。
最短距離ではなくなってしまいますが、途中、立ち寄りたいところがありました。
「ニューヨーク堂」https://www.nyu-yo-ku-do.jp/

何
なんの店?
はい。カステラのお店です。
いや、洋菓子とアイスクリームのお店といった方がいいのかな?
■ニューヨーク堂の生い立ち https://www.nyu-yo-ku-do.jp/page/6
カステラは「松翁軒」で購入済みですので、お目当てはカステラではございません。
「旅先では1日1ソフトクリーム」のMyルール達成のために「ご当地ソフトクリーム」を求めてきたのです。
こちらのニューヨーク堂さんでは「カステラソフトクリーム」なるものがあるのですが、ソフトクリームは工場で作られるアイスクリームのフレーバー次第で何味になるかはその日にならないとわからない。とのこと。
たのしみに伺ったのですが、なんとこの日はアイスクリーム工場が支度中で販売してませんでした。
めっちゃがかっかり。。。工場次第ってことは明日も支度中だったら食べられないのかな。
でもまぁ、ここまで来たので「眼鏡橋」いかないとね。すぐそばなので。

地元の小学校の野外授業で沢山小学生がいましたが、彼らは橋向の「チリンチリンアイス」に夢中でちょうど下には降りてきていなかったので、ゆっくり撮れました。

ここで3つ目の「ハート」です。

かわいいですよね♪
小学生たちの食べる「チリンチリンアイス」も興味惹かれましたが、私はやはり「ソフトクリーム」が食べたいのでここでは食べませんでした。
そして3つ目のハートの後は3つ目のお寺へ向かいます。

階段と坂の町・・・・だんだん足が辛くなってきたけど、見えてきました「聖福寺」

■聖福寺
聖福寺(しょうふくじ)は長崎県長崎市にある黄檗宗の仏教寺院。山号は万寿山(まんじゅさん)。
http://www.bbyuuyuu.com/burari/syofukuzi.html
「聖福寺山門」
元禄16年(1703)竣工 県指定有形文化財(昭和36年11月24日指定)
堺商人の寄進で棟梁も堺の人。堺で木材を切り組み、海路で長崎へ運んだ。瓦も堺産。三門形式で持送りなどに黄檗様式の特徴が見られる。

天王殿という名称は中国伝来のものです。左右を通り抜けとした門。中央に山門側と大雄宝殿側に背中合わせに仏殿がある。山門側が「弥勒堂」で、黄檗宗では弥勒菩薩の化身とされる布袋さんがにこやかに鎮座いている。
大雄宝殿側は「護法堂」で、守り神・韋駄天が釈迦の説法を剣で護っています。仏殿と門を兼用する独特の形式を持ちます。中門、弥勒門、護法堂などの別名がある。棟梁は山門と同じ堺の人です。
ひょ~~~~。。。。また階段!
「聖福寺天王殿」宝永2年(1705)の上棟 県指定有形文化財(昭和36年11月24日)

ひぃひぃ言いながら登りきると、にこやかな布袋さんが迎えてくださいます。

「聖福寺大雄宝殿」正徳5年(1715)の改築 県指定有形文化財(昭和36年11月24日指定)

釈迦(大雄)を本尊として祀る仏殿。正徳5年(1715)に改築されたもの。棟梁は長崎の人。色彩は扉その他局部にとどめ、素木を主体とするが、細部に黄檗建築の特徴を表す。
「崇福寺」の朱色の建物からするととても質実な感じ。

誰もいない金曜の午後~。だんだん日が陰ってきて寂しくなってきました。

「聖福寺石門」市指定有形文化財 昭和55年1月19日指定

長崎草創期前の栄えた大寺、崇岳神宮寺は、盛衰を重ね無凡山神宮寺として明治を迎えたが、廃仏毀釈のため寺は廃滅、金比羅神社となった。この時、仏像仏具その他仏寺に関係する一切が撤去されたが、境内に残されていた石門を明治19年(1886)聖福寺が譲り受け、現在地に移築した。
中央に唐僧木庵筆「華蔵界」の文字を刻むが、木庵は明暦3年(1657)崇岳山頂の絶景を賞して「無凡山」と題し大書した。それが山頂の巨石彫られているが、この石門もそのころの建造と推定されている。
「瓦塀」

明治中期築造。大雄宝殿横には珍しい瓦塀がある。これは明治初期、聖福寺の末寺5寺中3寺が廃寺となる際に、廃材の屋根瓦の一部を積み重ねてできたもの。
そうそう。境内に「坂本龍馬」の胸像があったのですが、撮り忘れました。
のちに知ったのですが、私が訪れる10日ほど前に建立されたそうです。
「聖福寺と坂本龍馬」の関係は、「1867(慶応3)年5月、龍馬率いる海援隊の船と紀州藩の船が衝突した「いろは丸事件」の談判が開かれた場所」だそうです。高知県と徳島県の境に生まれ育ったものとしては「坂本龍馬」はとても身近な歴史人なので、坂本龍馬ゆかりのお寺と知らずして訪れたことがとてもうれしかったです。なのに写真を撮り忘れるとか。。。残念。
東京発着Gotoどうなるの?の前に⑫へ続きます。

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